まことの恋が平穏無事に進んだためしはない。

シェイクスピア『夏の夜の夢』

マルクスが『資本論』で、シェイクスピアを数多く引用していることは知られています。その中でも、もっとも印象深いのがこのセリフ。シェイクスピアの翻訳で有名な小田島雄志さんは、このセリフの解釈はいろいろあってもいい、という風に書いていたので、きっとそういうものなんでしょう(小田島雄志『シェイクスピアの恋愛学』)

11月議会。議案に対する質疑の際に、本会議場でこのセリフを紹介しました。

核燃料サイクル路線の論戦をしていたわけですが、いくら使用済みMOX燃料を再処理する施設が見通せなくても、いくら高レベル放射性廃棄物の処分地が見つからなくても、そもそも再処理工場がうまくいかなくても、核燃料サイクルはうまくいくという前提でしか考えられない県の答弁を聞いていて、このセリフが思い起こされたわけです。

「まことの恋」かどうかは知りませんが、いくら国や県が核燃料サイクルの完成を願って恋焦がれてみたところで、それがうまくいくかどうかを決めるのは技術の問題です。また、原発を動かしてまでエネルギーが必要なのかという国民の選択の問題です。

恋焦がれてみたところで、核燃料サイクルの破綻は現実です。プルトニウムを量産する必要性もありません。プルトニウムの分離だって可能になっていません。核燃料サイクルの破綻を直視し、撤退戦略をもつことが必要です。

なお、県議会の議事録で「シェイクスピア」と検索すると、前例はありませんでした。シェクスピアを引用するはじめて県議になったのかな。